2013年05月号 教育とは「教えて育つ」こと
ヨットが身に付いた
教育とは何か。文字通り、「教えて育てる」ことだと考えるのが一般的であろう。つまり学校においては、教員が生徒や学生に教え、教員が彼らを育てる、という理解だ。「教える」のも「育てる」のも教員である。
同じことを生徒や学生の側から見ると、「教わって育つ」ことになる。しかし本当に、人は教わると育つのだろうか。
「生涯学習」の重要性が説かれて久しい。「lifelong learning」の訳語であり、自発的な意思に基づき生涯を通じて行う学習を指す。「生涯教育」(lifelong education)と対をなす概念である。
では「学習」(learning)とは何だろうか。マックに付属の英英辞典には「learn」の定義として、「研究、経験ないし教わることによって、知識や技能を得たり身に付けること」とある。そう、learnとは経験からスキルを身に付けることなのだ。決して、受動的に情報を受け取り知識をためることではない。自ら身をもって実践する過程で、そのスキルが身に付いていくのである。
例えば、自転車に乗れるようになるためにはどうしたらいいか。100ページの「自転車乗り方マニュアル」を読破しても、いっこうに乗れるようにはならない。自転車の構造や倒れずに走れる物理的な仕組みをいくら知ったところで、自転車で走ることはできない。
唯一の方法は、実際に乗ってみることだ。中学1年の夏、YMCAが主催する「野尻学荘」というキャンプで、私が初めてヨット(ディンギー)にひとりで乗ったとき、指導者は「まずは乗ってこい」と送り出してくださった。事前に教わったのは、「沈」というヨットが倒れた場合の起こし方だけ。それ以外、彼は何も教えなかった。
私は大喜びでヨットに乗り、よろよろと沖に出た。岬を過ぎると強い横風にあおられ、案の定「沈」した。教わったとおりにセンターボードに体重をかけて起こし、ヨットによじのぼった。私のヨット人生の始まりである。毎日、セイリングしたあと、陸に上がってから、その日ヨットの上で抱いた膨大な疑問を、指導者たちに質問し、書物をひも解くことによって解決していったのだ。
翌日はまた、得られたアドバイスや本に書いてあったことを実践した。どうやったら速く真っすぐ進むか。どうやったら風を効率的に使えるか。全身と頭脳をフルに使って「試行錯誤」を繰り返したのだ。やがて中学3年と高校1年の夏、そのキャンプで開催される小さなレガッタ大会で連続優勝した。ヨットの操船技術が「身に付いた」のである。
学習は続く
これが「学習」のプロセスだ。書物を読むこと、先生や指導者の話を聞くことは、学習の中心ではない。目的とする行為を、自分で繰り返しやってみることでのみ、スキルは身に付くのである。
けれども2年後、大学生になった私は、まだまだ「学習」が終わっていなかったことに気づく。同じキャンプ場で始めたボランティアで、中高生や大学生のキャンパーを相手にヨットを教えてみると、実は自分はそんなにわかっていなかったと思い知るのだ。
初めてヨットに乗る人から経験者まで、相手に応じた的確なアドバイスを試みる。なかなか伝わらない。ティラー(舵)の引き加減、体重をかける微妙な位置など、自分が身体で覚えていることを言葉にして表現し、相手が理解して実行できるように働きかけるのは、極めて知的な作業なのだ。一朝一夕にできるものではない。
うまく伝わって相手ができるようになると、相手もうれしいし、自分もうれしい。その喜びを共有すると、さらに前進したくなる。相手からさらなる質問を受け、考え、言葉にし、伝える、という好循環が巡りだす。
これは自分の専門である法律学においてもまったく同じだ。学部から大学院博士課程までの7年間、民法と著作権法を研究、そして「学習」したはずの私だが、それらを本当にわかった、と感じられるようになったのは、大学でそれらの科目を数年間、教えたあとである。
「教える」のが学習の完成
すなわち、「学習」を完成させるためには「他人に教えてみる」というプロセスが必要なのだ。得た知識や経験は、それを他人に教えるというプロセスを経て初めて自分のものになる。人に教えてみれば、自分が本当に理解しているかいないか、一目瞭然だからだ。教えることによって、自分の経験を咀嚼し、具体化し、確認するのである。
従って「教育」とは、「教えて育てる」ことでも「教わって育つ」ことでもない。「教えて育つ」ことなのだ。学生自ら他人に教えることによって、教えた本人が成長するのである。
とかく「学習」というとインプットに主眼を置きがちだ。しかし、インプットは手段にすぎない。目的はアウトプットである。読むより書く。聞くより話す。自分の体を使って何かをできるようになること、何かを実現すること、表現できるようになることこそ、学習の目的なのである。
米国の医学会では、スキルを身に付けるためには3つのステップを要すると考えられているそうだ。「See one, do one, and teach one. 」である。①観察する、②やってみる、③人に教える——という3ステップだ。これはいま述べてきた私の経験とも軌を一にするものである。
そのため「教育」の現場では、児童、生徒、学生たち自身が実際に他人に対して「教える」機会と時間をいかにして確保するかが焦点だ。その手法は多岐にわたる。特に1クラスの人数が多い大学でそれを実践するのはとても楽しい。
講義では、私から問いかけて発言を促す。学生の発言はすべて肯定し、褒める。隣同士の2人組で議論したり、ペーパーに意見を論述したりという時間を作って、全員が「教え」、「表現」する機会を持つ。
またノートこそ自己表現の場だから、理解した内容を初めて教える相手としてノートを使う方法を伝授し、実践してもらう。その成果は書いたページ数で測れる。今週何ページ書いたか、土曜日に数えるといい。
ゼミでは、複数学年合同で行うことによって、上級生はおのずと下級生に教えることになる。表現の場としてのブログ、Facebook、サイボウズLive、Twitter、ChatWorkといったウェブサービスも活用する。
こうして学生たちが自ら教え、表現する訓練を積み重ねると、彼らは目に見える成長を遂げていく。法律用語を的確に使って議論できるようになるし、裁判例の事実を正確に把握して再現し、そこに法律を適用して論文を書くといった知的な表現も可能になるのだ。彼らは自ら「育った」のである。
確かに教員の仕事は「教える」ことである。しかしその一方で、自ら「教えて育とう」としている学生や生徒が「教える」相手として、教員は重要な存在だ。
また教員が「育てる」要素は小さい。彼らは自ら「教えて」「育つ」からである。その成長を見守ることこそ、教員の大切な仕事だ。つまり教員の側から見た「教育」とは、「教わり」「育む」ことである。